前回の約束を違えることになるが、ここでモノのデジタルリマスタリングという考え方を整理しておきたい。「モノのデジタルリマスタリング」という考え方は確立された方法論ではない。他者によって有効性が確認されたものでもない。なにやらなんとか細胞のようだが、整理のためにこれまでの記事からのコピペや書き直しも多くなるがご容赦を。

技術のコモディティ化や経済のグローバル化が急速に進み、 単一の製品や技術のみで差別化を図り、そのアドバンテージを長期間にわたって維持してゆくことが難しい時代になった。そこで、単に製品やサービスの機能ではなく、それを使用することによって得られる「経験価値」に着目すべきだと(ずいぶん前から)いわれている。
「経験価値」に着目したデザインプロセスあるいはイノベーションプロセスとして「デザイン思考」というアプローチがある。これは有名なデザイン・ファームであるIDEO社やスタンフォード大学のデザインスクール「d.school(Institute of Design at Stanford)」において提唱され、広く学ばれ実践されている。簡単にいえば、製品やサービスの提供者からの視点ではなく、顧客の立場から何が問題点なのかを感じて考えるというもので、HCD(人間中心のデザイン)とも共通する考え方だ。そしていずれも「技術者の思い込み」や「技術からの発想」ではなく、そういった教育や仕事の経験を持つデザイナーを中心とした取り組みが前提となっている。もちろん、そのデザイナーが技術者でもあっても構わないが、思考回路は(技術志向ではなく)デザイナーでなければならない。

「技術のコモディティ化や経済のグローバル化が急速に進み、 単一の製品や技術のみで差別化を図ることが難しい」という状況が、とくに日本の製造業において困難な事態を引き起こしていることは明白だ。イノベーションのジレンマなど、その状況分析や解説は多く行われているにもかかわらず、それを克服するための有効な方法論や実例がない。よくスターバックスがデザイン思考やHCDの取り組みの例としてあげられるが、それ以外の例もショッピングセンターや航空会社やテーマパークなどの流通業やサービス業ばかりだ。「技術のコモディティ化や経済のグローバル化が急速に進み、 単一の製品や技術のみで差別化を図ることが難しい」という製造業が直面している課題に取り組んだ例ではない。

HCDの提唱者のひとりであり、「誰のためのデザイン?」で有名なD.A.ノーマンはAppleの企業文化を変革したとされているが、ジョブズ復帰と前後してAppleを退社している。その後のジョブズが起こしたiPodから始まるAppleのイノベーションが、ノーマンが残したものとどう関係しているかが非常に興味深い。個人的にはジョブズがそのまま受け入れて利用したとは思えないが。
そのノーマンは「誰のためのデザイン?」の改訂版"The Design of Everyday Things: Revised and Expanded Edition"で次のように書いている。
Incremental innovation starts with existing products and makes them better. Radical innovation starts fresh, often driven by new technologies that make possible new capabilities. 

インクリメンタルイノベーションは既存の製品をもとにそれらをよりよくするという取り組みである。それに対しラディカルイノベーションは何もないところからスタートし、何かを可能にする新しい技術によってドライブされることが多い。
The techniques of human-centered design are appropriate to incremental innovation: they cannot lead to radical innovation.

HCDの手法はインクリメンタルなイノベーションに適している。ラディカルなイノベーションを導くことはできない。
ラディカルな(製品の)イノベーションは、それまでに存在しなかったものが新しい技術の発明によって生み出されるという意味で使われている。それまでなかった画期的な新しい製品を生み出すのは技術に依るところだという。 

インターネットが出現するまで、コンスーマ製品をつくる一般的な製造業は造った製品を流通業に販売するだけで、その製品の顧客(ユーザー)との接点はほとんど持っていなかった。接点といえばTVなどのマスメディアを利用した広告などの一方的なものばかりで、双方向性のあるものは困ったときだけ顧客から電話をかけてくるコールセンターぐらいだった。これでは流通業やサービス業のように顧客の経験に関与することができず、自社の提供する製品に関連して顧客が経験する価値を高めることは不可能であり、経験経済の時代に製造業が生き残ることはできないことになる。
しかし、インターネットによって製造業が顧客との接点を持つことが容易になった。インターネットを利用して製品(モノ)に関連するコンテンツやソリューションを提供して顧客との接点を作り、顧客がモノを使う経験に積極的に関与してその価値を最大化することができる。

「モノのデジタルリマスタリング」はデジタルビジネスデザインという考え方からの発展形だ。
  1. デジタルコンバージェンスを可能にする技術やインフラを定義する
  2. それによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  3. バリュープロポジションを定義する
  4. それを実現する製品「ハード」「ソフト」「サービス」を再定義する 
これは十年以上前に本かWebで見つけて以来、自分の仕事の基本にしてきたものなのだが、その出典元を忘れてしまった。この考え方をベースに「デジタルコンバージェンスを可能にする技術やインフラ」をインターネットとその周辺の技術やインフラに絞ったものを、ここで「モノのデジタルリマスタリング」と呼んでいる。
  1. インターネットによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  2. バリュープロポジションを定義する
  3. それを実現する製品とWebサービスをデザインする 
最初の取り組みは、デジタルリマスタリングの対象となるモノに関連する情報やコンテンツを洗い出すことだ。そのモノを使ってユーザーが何らかの目的を達成する過程を、その情報やコンテンツの流れに着目して観察してみる。その情報やコンテンツをインターネットで扱うことによって可能になる「新しいユーザー体験」を描くことから始める。
インターネットで扱えるものはデジタル化されたデータだけだから、「インターネットによって可能になる」ということは、そのデータの新しい扱い方によって可能になることと考えればよい。そこで最初のステップをより具体的にしておきたい。
  1. モノに関連する情報やコンテンツをインターネットで扱うことによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  2. バリュープロポジションを定義する
  3. それを実現する製品「ハード」「ソフト」「サービス」を再定義する 
最後のステップも元に戻した。インターネットとその周辺の技術やインフラとして、スマートフォンやタブレットなどのモバイル端末とそのアプリケーションソフトを考えるべきだと思い直した。

デザイン思考やHCDの取り組みの例として挙げられるスターバックスやショッピングセンターや航空会社やテーマパークなどに共通することは、いずれもがユーザーが訪問し体験する「場所」を提供していることだ。ユーザーはホームページやチェックインカウンターや飛行機の中という「場所」でサービスを体験する。それらのユーザーの体験には始まりと終わりがある。もちろん、ユーザーとの関係性は長く続く(続けたい)ものであるが、ユーザー調査や分析などではカスタマージャーニーマップなどのツール類を使って始点と終点の有る限られた期間の、ユーザーがその場所(サービス)を利用するという行動にフォーカスする。
コーヒーショップやファストフード店でコーヒーを飲んでいる人が、店に入って出てゆくまで、あるいはその前後に少し拡張した期間のユーザーの体験を調査分析し、そこに潜在的なニーズを発見し、それを満たす新たなユーザー体験をデザインする。その2つのユーザー体験の価値の比較は容易にできる。

「モノのデジタルリマスタリング」という考え方に取り組み始めたきっかけは、ノーマンのエッセー"Technology First, Needs Last"の次の一言だ。
" The technology will come first, the products second, and then the needs will slowly appear, as new applications become luxuries, then "needs," and finally, essential."

まず技術が最初に来て、次に製品、そして新しいアプリケーションが快適になるに連れてニーズがゆっくりと顕在化し、最後にそれが必要不可欠なものになる。
問題あるいはニーズは、それを解決する(満たす)モノが現れて初めて顕在化する。それまで潜在的なニーズというものは存在しない。モノが現れてから、あたかも潜在していたニーズが顕在化したように見えるだけだ。
デザイン思考のアプローチ、すなわちまず本当の問題を特定してからその解決策を考えるというアプローチではモノの機能や仕様の改善にしか結びつかない。ラディカルな(モノの)イノベーションを起こすことはできない。「技術のコモディティ化や経済のグローバル化が急速に進み、 単一の製品や技術のみで差別化を図ることが難しい」という困難な事態を克服するには、それらとは異なったアプローチが必要になる。

しかし、上述の「モノのデジタルリマスタリング」の3つのステップだけでは、デザイン思考が排除しようとする「技術者の思い込み」や「技術からの発想」の落とし穴を回避することはできない。最初のステップで描いた新しいユーザー体験が満たそうとする「潜在的なニーズ」はあくまでも「技術者の思い込み」や「技術からの発想」による仮説にすぎない。間違った仮説に基づいてサービスやモノを創ったら悲惨なことになる。 次のステップに移るまえにデザイン思考やHCDのテクニックを参考にして、この人間不在のアプローチの仮説を人間中心に転換する工夫をしなければならない。

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川手恭輔(Internet Born & Bred)