4月19日のNHK日曜美術館は「画伯!あなたの正体は?ドキュメント・山口晃」という特集だった。山口晃さんは、以前の記事で紹介した「アートにとって価値とは何か」という本の著者の三潴末雄氏のミヅマアートギャラリーに所属する売れっ子アーティストだ。
歴史と現代の時空が混在する大和絵のような劇画のような、不思議でユーモラスな空間や人物を描く。番組は、画家の独特の発想から、それを緻密なデザインによって一枚の絵に仕上げていくプロセスに注目している。

画家は自らの言葉で、製作のモチベーションをノートにメモしていた。
私が面白い(大切)と思うものを誰もそう思わない。 
そう思えるよう表してやる。それが表現。
いくつかの葛藤を経て、画家は「自分の描きたいものを描く」という画家としての原点に再帰した。自分の描きたいものとは、「私が面白い大切と思うもの」であり、描くという行為は、それを人々にも同じように思ってもらうための表現手段だ。

画家が面白い大切と思う独特の発想が形になるまでは、当然ながら人々はそれを理解することができない。その発想と人々の理解とのギャップが大きければ大きいほど、きっと画家は穏やかな表情に秘められた野心を掻き立てられている。
描き始めが一番(時間が)かかる
怖いわけですよ
描かないと宝の山ですから
可能性100%の素晴らしいものがあって
描いていくっていうのはものが出来ていくんじゃなくて
100%の可能性が90%に削られて80%に削られて
可能性がどんどん無くなっていく
可能性を無くして
そういう確定性に変えていく
その大きなギャップを埋めるための戦略を徹底的に考え抜き、表現の構想を練り上げる。そのために、実際に描く時間と同じぐらい(あるいはそれ以上)の時間を費やす。
そこまで周到に準備をしても、初めて真っ白なキャンバスに向かうときは「怖い」と感じるという。

ちょうど1年前の5月5日の、やはりNHK日曜美術館で、大江健三郎さんがフランシス・ベーコンの絵の前で次のように話した。
最初は偶然のように始った絵が1/3ぐらい出来上がると、自分の中に批評性というものが生まれる。描いている(書いている)ものが良いか悪いか、この点は良い、この後半戦はすっかり捨ててやり直さなければいけない、というような態度決定を自分に呼び起す力が、偶然から始まった絵、あるいは偶然からのように始まった小説の草稿にはある。それが僕にとっては一番面白い、小説家であることの驚き悦びに関係しています。 
100%の可能性を削っていきながら、それを確定性に変えていくと、画家自身も初めて自分の表現を体験することになる。画家自身に批評性が生まれ、否が応でもその「構想」が正しかったかを自ら評価することになる。それを「怖い」と感じるのだと思う。

画家にとっては表現の技術は問題にならない。自分の発想を表現という形にする「構想」が、そのスケールや独自性や説得性において画家自身のイメージのレベルに達していたのか。自分自身を誤魔化すわけにはいかない。確定しつつある形が、その代償となった真っ白なキャンバスが持っていた可能性に価するものになっているか。

番組のナレーターが次のように言った。
独りよがりの思いから生まれた絵が見るものの胸を打つ
アートに限らず、それまでになかった新しいモノを創り出すということは、「独りよがりの思い」あるいは「独特の発想」から始まる。それを「独りよがり」で終わらせずに、人々の胸を打つ表現という形にするには、自らに生まれる批評性というものが必要だと思う。しかし、それは決して「見るもの」への媚びではない。

その表現を見るものの側に立つと、その表現しようとするものの独自性に胸を打たれる。その表現の独自性だけではなく、画家が表現しようとした「面白い大切と思うもの」の独自性に感動する。あるいはその表現に出会ったときに、見るもの自身も気づいていなかった潜在的な価値観が呼び覚まされ、「面白い大切と思うもの」そのものに共感するのかもしれない。

ビジネスの世界においても、それまでになかった新しいモノを創り出すためには、「私が面白い大切と思うもの」を持っていなければならない。それは起業家についても大企業で働くシリアル・イノベーターについても言えることだ。モノを創るという行為は、それを人々にも同じように思ってもらうための表現手段だ。その独特の発想が形になるまでは、当然ながら人々はそれを理解することができない。その発想と人々の理解とのギャップが大きければ大きいほど、モノとして表現することが面白くなる。(続く)

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