デザイン思考で行こう!

Life will find a way, we'll find a way technology lives.

タグ:リーンスタートアップ

前回、次のようなことを書いた。
エリック・リースは、その著書『リーン・スタートアップ』で、プロダクト・マーケット・フィット、つまりプロダクトを、狙う市場を満足させることができるものに育てるために、プロトタイプの段階から実際の顧客に使ってもらって、「構築 - 計測 - 学習」のサイクルを繰り返すことが重要だと説いた。しかし、それはウェブサービスやスマートフォンのアプリを想定した話であり、そのままハードウェア製品に適用することはできない。

ハードウェア製品で「構築 - 計測 - 学習」のサイクルを繰り返すために必要な時間とコストは、ウェブサービスやアプリのようなソフトウェアとは比べものにならない。その上、顧客に使ってもらうには、製品を購入してもらわなければならない。イノベーターやアーリーアダプターと呼ばれる初期ユーザーを想定したものであったとしても、要求されるプロダクトの完成度は、はるかに高いものだ。だから、ハードウェアのスタートアップはハードだと言われている。
(ジーンズをはいたパナソニックに必要な自信と野心)
しかし、ハードウェアスタートアップにリーンスタートアップは難しいかもしれないが、メーカーがリーンなイノベーションに取り組む方法はある。

イノベーションとは不確実性への挑戦だ。リーンスタートアップは、スタートアップが、その不確実な状況を克服するための方法論だが、メーカーが製品のイノベーションに取り組むときの不確実性を克服するには、製品をつくる前に顧客を獲得しておけばよい。

カシオ計算機は、2018年3月期の決算説明会の場で、デジタルカメラ市場からの撤退を表明した。カシオは、1995年に発売したQV-10で、デジタルカメラ産業の先駆けとなったメーカーだ。しかし、誰もがスマートフォンを持ち、いつでも写真を撮ることができるようになったという状況の変化のなかで、デジカメという製品をイノベーションし、新しい顧客価値を生み出すことができなかった。

今後、カシオは、完成品に集中するのではなく、カメラ性能を違うジャンルの製品に活かしたり、他社の完成品のためのモジュールとして提供したりなどの道を探って行くようだ。これは、自社の保有技術を応用した新しい製品(やモジュール)によって、新しい事業ドメインに進出するというイノベーション戦略だ(図の◆法
matrix1
しかし、すでに他のカメラメーカーも同様の取り組みを始めている。カシオの「保有技術」に競争力があるのか、あるいは、他社とは違う事業ドメインに進出するのか。その辺りは明らかにされていない。

リーンイノベーションは、新しい技術を導入して既存製品をイノベーションするための一つの方法だ(図の 法
すでに、インターネットとモバイルというグローバルなビジネスの基盤が整備されている。その上に、ソフトウェアの力によって、さまざまな「ハードウェア製品が扱うコンテンツや関連するデータの流れを変える新しいサービス」をつくることができる。
(メーカーが生き残るために必要なたった一つのこと)
新しい技術とは、インターネットとモバイルというビジネス基盤の上に、新しいサービス、すなわちアプリケーションをつくるためのソフトウェアの力だ。まず、そのアプリケーションを無償で提供し、いったん製品(ハードウェア)のことは忘れて、多くのユーザーを獲得することに注力する。

そのアプリケーションが十分なユーザー(数と質)を獲得できてから、そのアプリケーションに必要なハードウェアをつくる。それまでになかった革新的な製品が市場に提供されたとき、最初は、その価値が理解されず市場に受け入れられるまでに時間がかかる。しかし、そのアプリケーションのユーザーは、その製品の価値をすぐに理解することができるはずだ。

カナダのマーケティング・コンサルティング会社であるツィスト・イメージのミッチ・ジョエルが、その著書Ctrl Alt Deleteのなかで功利主義マーケティングという考え方を提唱している。功利主義(Utilitarianism)とは、自分の利益になることは社会全体にとっても利益になり、逆もまた然りであるというものだ。
功利主義マーケティングは、次にビジネスを大きく変えてしまうものになるだろう。功利主義マーケティングとは広告に関することではなく、メッセージングに関することでも、顧客との直接的な対話に関することでもない。それは真の価値と実利の提供に関することだ。それは消費者がいつも使いたくなるだけでなく、それを使うことによって多くの価値を得ることができる何かであり、それは彼らの生活において大きな注目の的となるだろう。我々が暮らしているこのメディアや広告が溢れた世界において、あなたのブランドはそのような興味をかきたて注目を集めることができるだろうか。(英文を翻訳)
メーカーは、その製品によって機能的価値を提供する。そして、その製品に関連する別の機能的価値をマーケティングとして提供することによって、市場の信頼と評判を獲得しようという考え方だ。

アプリケーションによって、「その製品に関連する別の機能的価値をマーケティングとして提供する」ことに、製品をつくる前に取り組む。そのアプリケーションは、「真の価値と実利」を提供するものでなければならない。それによって、製品をつくる前に顧客を獲得できるだけでなく、アプリケーションのユーザーを獲得する過程において、提供しようとする製品の顧客と顧客価値が明確になり、不確実性を排除することができる。

デジカメに関連するもので、アプリケーションで提供できる機能価値とは何か。いったんデジカメを捨てたカシオは、ゼロから考え直すことができるかもしれない。パナソニックはどうだろうか。その辺は次回に。

お問い合わせやご相談は、contact に @ibornb.red をつけたアドレスまで

川手恭輔(Internet Born & Bred)

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5月7日の日本経済新聞(電子版)に、『勝てるか ジーンズをはいたパナソニック』という記事が掲載された。
パナソニックは4月からジーンズやスニーカーでの勤務を解禁した。朝礼で松下幸之助がつくった「七精神」を唱和する従来のスタイルを徐々に変えようとしている。自らもチノパンをはいて旗を振る社長の津賀一宏(61)はスタートアップに転職した「辞めパナ」を呼び戻したり、外部の力で社内起業を促したりなど必死だ。ジーンズをはいたパナソニックは中身も変われるのか。
このような書き出しで、パナソニックの幹部が考える「パナソニックが魅力的な商品をなかなか出せない原因」と、それを打破するための取り組みが紹介されている。

確かに、パナソニックのイノベーションへの渇望と本気は、他の多くの報道からも伝わってくる。しかし、この記事に書かれているような原因や問題は、日本の大手メーカーの中にいるものであれば誰もが認識していながら、長い間放置されてカチンカチンに固まってしまったものだ。

もちろん、自由な服装での勤務は、社員に(一部のオジサンを除いて)歓迎されるだろう。しかし、それが「とりあえず、スタートアップを真似てみよう」という発想によるものであれば間違っている。そもそも、大企業がスタートアップに学ぶべきことはあまりない。

スタートアップは、野心がジーンズをはいてフーディーをかぶっている。世界を変えてやろう、一攫千金、有名になりたい、そして、もちろん人々が困っていることを解決するといった、さまざまな野心が、ほんの数パーセントという成功の確率への挑戦にスタートアップを駆り立てる。その不確実性と非効率さを、多くの痛みを乗り越えてリストラを断行してきた大企業が受け入れるはずがない。

顧客に問うという間違い

記事中にある「社員のアイデアを素早く商品化して小ロット生産で市場に出し、顧客の声を聞きながら完成度を増す」という考え方は、エリック・リースの「リーンスタートアップ」 の表面的な解釈(誤解)によるものと思われる。

確かに、エリック・リースは、プロダクト・マーケット・フィット、つまりプロダクトを、狙う市場を満足させることができるものに育てるために、プロトタイプの段階から実際の顧客に使ってもらって、「構築 - 計測 - 学習」のサイクルを繰り返すことが重要だと説いた。しかし、それはウェブサービスやスマートフォンのアプリを想定した話であり、そのままハードウェア製品に適用することはできない。外部から人材を招き入れて導入するという、「アジャイル(素早い)」と呼ばれる開発手法も同様だ。

ウェブサービスやアプリのビジネスモデルは、プロダクトの利用が完全に無料であったりフリーミアムであったりする。プロトタイプや、必要な最小限の機能だけを実装したプロダクトを、多くのユーザーに使ってもらうことが比較的容易だ。 改良したプロダクトを公開すること(構築)も、ウェブサービスであれば毎日でも可能だ。

しかし、ハードウェア製品で「構築 - 計測 - 学習」のサイクルを繰り返すために必要な時間とコストは、ウェブサービスやアプリのようなソフトウェアとは比べものにならない。その上、顧客に使ってもらうには、製品を購入してもらわなければならない。イノベーターやアーリーアダプターと呼ばれる初期ユーザーを想定したものであったとしても、要求されるプロダクトの完成度は、はるかに高いものだ。だから、ハードウェアのスタートアップはハードだと言われている。

リーンスタートアップの本質は、早く失敗すること、プロダクトがダメなものであることを資金を使い果たす前に知ることであり、よいプロダクトをつくるための方法論ではない。顧客は「使わない」、ハードウェア製品の場合は「買わない」という無為の行為によって、プロダクトがダメなことを教えてくれるだけだ。しかし、何がダメなのかは教えてくれない。「使わない」理由を訊いて改良しても、顧客は別の「使わない」理由を考え出す。
社員のアイデアを商品化するまでに幾重もの難関がある。社内会議をクリアするために複数のプランのプレゼンテーションやそのための資料を作り、上司の承認をとらなければならない。
スタートアップでも、ベンチャーキャピタルなどからの資金を得るために、自らのアイデアを売り込み、その可能性を理解してもらわなければならない。もし、パナソニックの社内のしくみが問題なのであれば(おそらく問題だ)、まず企画や開発のプロセス全体を刷新して、「社員のアイデア」に限らず、全てのプロダクトを「素早く商品化」できるようにすべきだろう。

日本メーカーが、サウス・バイ・サウスウエスト(SXSW)というショーにプロトタイプやコンセプトモデルを出展することも流行りだが、そのようなスタートアップのお祭りで評判がよくても何の意味もない。「社内で評価されなくてもいい。社外から反響があれば製品化しよう」。プロダクトが提供しようとする価値を、社内では評価することができないから顧客に丸投げする。日本を代表するメーカーが、そこまで自信をなくしてしまっているのか。

提供しようとする価値への自信

プロダクト・マーケット・フィットとは、プロダクトとマーケットとのギャップを埋めるプロセス。プロダクトとはメーカーが提供しようとする価値を形にしたものであり、マーケットとはその形から顧客が得られる価値だ。ギャップとは「提供しようとする価値 > 顧客が得られる価値」であり、それは「形」を改善して顧客が得られる価値を向上することによって埋める。

「提供しようとする価値 = 顧客が得られる価値」になっても、マーケットがプロダクトを受け入れない場合は、提供しようとする価値が間違っているということだ。しかし、提供しようとする価値が明確でなかったり、それにメーカーが自信を持っていなければ、いったい何を「形」にし、どのようにプロダクト・マーケット・フィットをしようというのだろうか。

SXSWに出展され、おもわぬ好評を得たという「料理をしながら栄養とカロリーがわかるレンジのような箱」は、どのような価値を提供しようとしているのだろうか。「料理をしながら栄養とカロリーがわかる」というのは機能であり価値ではない。思いついたアイデアで、先に「形」をつくってしまうと、その価値に自信を持つことができない。

メーカーは提供しようとする価値を明確にし、それを社内で共有して「形」にし、自信と責任を持ってプロダクト・マーケット・フィットに取り組まなければならない。新しい価値を提供しようとする製品のプロダクト・マーケット・フィットには時間とコストがかかる。その価値が十分に共有されていなければ、社内に不協和音が生まれて、途中で投げ出してしまいかねない。

ディスラプションへの野心

戦後、欧米のメーカーという明確な目標があって、その目標に追いつき追い越すことに成功した日本のメーカーは、85年のプラザ合意後の円高不況で、グローバルな競争力が急速に低下した。そして、次の目標を見出せないまま、リーマンショックとその後の円高に遭遇して壊滅的な状況に陥ってしまった。

最近になって、金融緩和政策によって誘導された円安とリストラによって、表面的には業績が回復したように見えるが、実は、パナソニックに限らず、日本のコンシューマ・エレクトロニクス製品のメーカーから「魅力的な商品をつくる」力が完全に失われている。多くのメーカーは、生産のコストダウンや海外シフトに気を取られ、競争のパラダイムが生産の力からソフトウェアの力に急速に移りつつあることに気がつかなかった。

製品のイノベーションというと、それまでまったく存在しなかった製品を発明することと考えがちだが、人々の生活に大きな影響を与えるような製品は、iPhoneやiPodのように既存の製品を置き換えるものであることが多い。新しい製品を発明する時代は過ぎた。現代はインターネットとモバイルというグローバルなビジネスの基盤が整備されている。その基盤の上で、ソフトウェアの力によって、すでに大きな市場と多くの顧客を獲得している製品を、再発明して置き換える時代だ。パナソニックは、その対象となる多くの製品事業を抱えている。

パナソニックが「魅力的な商品をつくる」には、自社の製品を置き換えてやろうという野心が必要だ。それは、既存事業を破壊し再構築するディスラプションを招くことになる。長い間放置されてカチンカチンに固まってしまった「パナソニックが魅力的な商品をなかなか出せない原因」を破壊するには、トップは胆力を持ってハンマーを振るう必要があるが、その前に、再構築後のビジョン(目標)を示して社員の野心を掻き立てなければならない。

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川手恭輔(Internet Born & Bred)

家電などの一般消費者向けの製品をつくる日本のメーカーでは、新しいものを生み出すための「アイデア出し」という取り組みが行われているはずだ。不定期に開催されるものであったり、イノベーション創出のための一時的、あるいは定常的な組織が存在したりもする。それらは、かなり以前から、名前や形態や責任者を変えながら、新しい取り組みとして、なんどもメディアに取り上げられてきた。しかし、そこから、一つの事業の柱となるような革新的な製品が生み出されたのを見た記憶がない。

ソニーの創業者の井深大さんの「海外出張に行くときに、飛行機の中で自由に音楽を聞けるもの」というアイデアから、それまでに存在しなかった「外で音楽を聴くためのハードウェア」が発明された。

WALKMANは、それまでになかった携帯音楽プレーヤーを発明し、iPodは、それを再発明した。WALKMANは、外出先で、あるいは歩きながら音楽を聴くという新しい体験を創造し、iPodはその体験を大きく改善した。しかし、最も大きな違いを乱暴に言えば、WALKMANは偶然から生まれ、iPodは意思によって生まれた。

「アイデア出し」の取り組みは無駄ではないだろうし、無意味と言うつもりもない。しかし、一つ大きな疑問がある。

産業革命以降、そして特にデジタル革命以降、多くのハードウェアの発明がなされた。もはや、WALKMANのような「まだ存在しないもの」を発明する余地は残されていないのではないか(但し、ソフトウェアには無限の可能性がある)。そのような状況では、いくら新しいものを生み出すための「アイデア出し」を行っても、バラエティ雑貨店で売られているようなアイデア商品しか思いつくことができない。

メーカーは、WALKMANではなくiPodをつくる取り組みをすべきだ。iPodはそれまで存在しなかったものではなく、WALKMANを置き代えるものだった。

WALKMANによって、携帯音楽プレーヤーという大きな市場が形成されていた。iPodはWALKMANのユーザーが潜在的に抱えている問題を発見し、それを解決するユニークな価値をデザインし、そしてプロダクトマーケットフィットに注力すればよかった。

それに対し、WALKMANをつくろうとすれば、エリック・リースの『リーン・スタートアップ』やスティーブ・ブランクの『アントレプレナーの教科書』でお馴染みの「アイデア(仮説)を検証する」という「顧客発見」のプロセスが必要になる。

例えばリーン・スタートアップは、仮説検証に必要な最小限のプロダクト(MVP)をつくり、それを実際の顧客に使ってもらい、その反応を検証しながら、構築(BUILD) −計測(MEASURE)−学習(LEARN)の学習サイクルを繰り返すことを提唱している。しかし、これは無償で提供することができ、非常に少ない期間とコストで構築が可能なソフトウェア(Webサービス)だからこそのプロセスであり、ハードウエア製品では不可能だ。

そこで、アイデアを視覚化して、クラウドファンディングや社内の人気投票などの手段で、「顧客に問う」ことを代替えしたりしている。しかし、それでは仮説検証にはならない。クラウドファンディングで初期顧客を惹きつけることはできるが、それが、実際に製品化した後で、多くの顧客を獲得することに繋がることはない。

社内での人気投票は、無責任であるだけでなく、どのような基準で投票するのかが曖昧なままではないだろうか。皆が「あったらいい」と思う程度のものであるならば、きっとそれは取るに足らないものだ。

さらに、視覚化されたアイデアは、演出されており、実際に顧客が感じる体験の価値が誇張されている。そのようなもので、「顧客が対価を払った後に感じる価値」を評価することはできない。アイデアの視覚化は、主に、確信犯が投資家や決裁者の興味を惹くためのプレゼンテーションに使われる。

「iPodをつくる」ということは、偶然のアイデアに頼るのではなく、既存事業の製品を置き代えるものをつくるということだ。家電でもカメラでも、そしてすでにスマートフォンのアプリになってしまった携帯音楽プレーヤーでも、その市場に経験と知識がある、自社の製品を置き代えるチャレンジをすれば良い。顧客を発見する必要はない。顧客はそこに居る。

メーカー企業のトップは、「既存事業の製品を置き代える」という強い意志を示すべきだ。それは、現行事業を破壊するかもしれない。その取り組みを、どのように現行事業のオペレーションに組み込むかを考えるのがトップの仕事だ。

シリコンバレーに綺麗なオフィスをつくるのもいい(羨ましい限りだ)が、そんなことでイノベーションが生まれるはずがない。アイデア出しの段階のスタートアップに、そんな恵まれた環境が提供されることはない。何も結果を出していないグループを優遇しても、彼らに今日の飯を食わしている現行事業のメンバーとの軋轢を生むだけで、それはイノベーションの大きな妨げになる。

トニー・ファデルの大量の音楽を入れられるプレーヤーをつくろうという意志と、デジタル時代のプラットフォームを構築しようというスティーブ・ジョブズの意志によってiPodが生まれた。「iPodはプロダクトマーケットフィットに注力すればよかった」と書いたが、それには三年の時間がかかっている。

「意志の上にも三年」というわけだ。

「再発明」のご相談は、contact に @ibornb.red をつけたアドレスまでメールでお寄せください。
川手恭輔(Internet Born & Bred)




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モノづくりのデザイン思考 (連載 13)

プロダクト・マーケット・フィット 

ウェブサービスとハードウェアビジネスでは、プロダクト・マーケット・フィット、狙う市場を満足させることができるものに製品を育てるプロセスが大きく異なります。エリック・リースは『リーンスタートアップ』の中で、プロダクト・マーケット・フィットのために、製品をプロトタイプの段階から実際のユーザーに使ってもらい「構築 - 計測 - 学習」のサイクルを繰り返すことが重要だと説きました。
stage
十万円程度のパソコンがあれば、ウェブサービスに必要なソフトウェアを開発することができます。そのプロトタイプ、必要な最小限の機能だけを実装した製品(ウェブサービス)を公開して実際のユーザーに使ってもらうためには、開発したソフトウェアをインターネットに接続されたサーバー上で動かす必要がありますが、こちらも最初は年間数万円から数十万円程度でアマゾンのAWSなどのサービスを利用することができます。そして、得られたフィードバックから改良したソフトウェアをアップデートすることは毎日でも可能です。 

また、ウェブサービスのビジネスモデルは、サービスの利用が完全に無料であったりフリーミアムであったりします。プロトタイプ、必要な最小限の機能だけを実装したサービスを、多くのユーザーに使ってもらうことが比較的容易です。

しかしハードウェア製品の場合は「製品をプロトタイプの段階から実際のユーザーに使ってもらう」ことは難しく、限定的なモニターに試してもらうという程度になってしまうでしょう。実際のユーザーに使ってもらいフィードバックを得るには、製品を購入してもらわなければなりません。たとえイノベーターやアーリーアダプター(初期購入者)を想定したものであったとしても、要求される製品の完成度はウェブサービスの場合とは比べものになりません。

リーンスタートアップを誤解し、解決しようとする問題とソリューション(製品)が合致しているかの検証が不十分なまま製品化し、プロダクト・マーケット・フィットの前に販売に多くの投資をして、たくさんの「なくても良い」機能を追加するという失敗も散見されます。

プロブレム・ソリューション・フィット


前回の『iPodの創り方』では、「コンピュータ(iTunes)で音楽を管理する」というソリューションと、「たくさんあるCDを管理できない」という携帯型音楽プレーヤーのユーザーが抱えているであろう問題の組み合わせのアイデアを持って、機能領域から顧客領域に遡上して「観察」を行いました。そして「聴く曲をその場で選びたい(けどできない)」という、より大きな新しい問題を発見し、機能領域に戻って、その問題を解決するための「携帯型音楽プレーヤーにすべても曲を入れて持ち歩く」というソリューションを導きました。このプロブレム・ソリューション・フィットのプロセスは、図のように表すことができます。
iteration
これは、問題とソリューションを合致させる、デザイン思考でいうところの「ニーズとシーズを調和させる」プロセスでは、顧客領域と機能領域をなんども往復しなければならないということを意味しています。それによってソリューションが洗練され、より大きな問題を解決するものになります。
まず技術が最初にあって次に製品、そして新しいアプリケーションが快適になるに連れてニーズがゆっくりと顕在化し、最後にそれが必要不可欠なものになる。- D.A. ノーマン
iPodやiPhoneの例を見ても、ビッグアイデアのプロダクト・マーケット・フィットには少なくとも3年はかかると考えたほうがいいでしょう。その時間で、人々の思いを積み上げ、製品や連携するサービスに改良を加えていかなければなりません。そして徐々に、その価値が人々に理解されていきます。しかし、それにはプロブレム・ソリューション・フィットのプロセスで、その製品が解決しようとする問題を評価しておく必要があります。

それはどんな問題を解決するのか?

その問題を解決することによって、製品のユーザーはどのような新しい体験の価値を得られるのでしょうか。その問題は、すでに存在する他の手段で解決できてしまわないでしょうか。その問題は、解決する価値があるのでしょうか。これらの質問にシンプルに答えられるでしょうか。 

2015年の4月に発売されたApple Watchの狙いについて、ティム・クックは「アップルは人々の生活を変えたいのだ」と次のように話しました。
人々があまりに長いあいだ座っているのはアップルの社内で日常的にみられることだが、それを知らせてくれる機能がある。会議で終わりの時間が近づくと、みなApple Watchのアラームに促されて立ち上がる。多くの医者が、座っていることは癌の原因になると考えている。動くことは間違いなく、誰にとっても良いことだ。 
健康でいたいということが、人々の変わることのない基本的なニーズであることは間違いないでしょう。しかしApple Watchのキラーアプリケーションが「人々を健康にすること」であるならば、解決すべき大きな問題は「会議で長いあいだ座っていること」の他にあるように思います。

Apple Watchは発売から2年が経過しましたが、まだプロダクト・マーケット・フィットを果たしていません。アップルのことですから、もしかするとプロブレム・ソリューション・フィットのプロセスで、人々の健康のために解決すべき大きな問題を発見し、そのためのソリューションを考案してあるのかもしれません。iPodの発売後に音楽のダウンロード販売を開始したり、iTunesをWindowsに対応したりしたように、重要な機能やサービスを追加する準備に手間取っているだけなのでしょうか。
 
ご相談やお問い合わせは、contact に @ と ibornb.red をつけたアドレスまでメールでお寄せください。 

お断り これは連載のために過去の記事を書き直したものです。

D.A.ノーマンの「誰のためのデザイン?」の改訂版 The Design of Everyday Things: Revised and Expanded Edition [Kindle版](邦訳もそろそろ?)では第6章 と第7章が新しく追加されたが、その第6章 Design Thinkingに次のような記述がある。
The prototypes might be scaled objects, constructed  by model makers or 3-D printing method. Even well rendered drawings and videos of cartoons or simple animation sketches can be useful. Virtual reality computer aids allow people to envision themselves using the final product, and in the case of a building, to envision living or working within it. All of these methods can provide rapid feedback before much time or money has been expended.

プロトタイプは、模型製作者や3Dプリンティングなどによる縮小された模型かもしれない。上手に描かれたデッサンやマンガあるいはアニメーションによるスケッチでもいい。コンピュータによるバーチャルリアリティ表現であれば、人々は最終的に製品化された製品を使っている自分自身を創造することができ、その製品が建物ならばそこでの暮らしや仕事を思い浮かべることができる。これらの方法によって、多くの時間とお金を浪費する前に迅速なフィードバックを得ることができる。
エリック・リースの「リーンスタートアップ」をご存じの方であれば、これはMVPの考え方と同じであることに気付いただろう。前々回の記事でLTFについて次のように書いた。
LTF(ルック・トゥ・ザ・フューチャー)はリーンスタートアップで提唱されているMVP(Minimum Viable Product:仮説の検証に必要な最低限の機能を持った製品)と同じようにも思えるがLTFはプロダクトではない。MVPもちゃんとした製品やサービスの形をとらなくてもその一部であったり、その機能を表す何か、たとえばペーパーモックやビデオであったりする。LTFは製品やサービスの説明をするものではない。それが提供されたときの人々の生活を表したものだ。そのストーリーを読んでもらい、そこからプロジェクトで狙いをつけた潜在的なニーズを顕在化させる製品やサービスについての気づきやヒントを得ようというのだ。 
D.A.ノーマンがいろいろなプロトタイプの形を示しているが、製品の種類やその企画・開発の段階によってフィードバックを得るための「プロトタイプ」は異なるだろう。あまりMVPとかLTFなどという定義にこだわらず、仮説を検証するためのフィードバックをえるために必要な「何か」を考えていけばよいのだろう。要は、最初のアイデアを盲信してそのまま時間とお金をかけて作り上げてしまうと痛い目をみるよということだ。もちろん、それで成功すればいいのではあるが。
approach

上の図は、いま取り組んでいるプロジェクトにおけるコンセプトデザインのプロセスを示したものだ。そのテーマがなんであるかをここで紹介することはできないが、例えば(前回と同様に)"What"が「1000曲を持ち歩くことができる携帯ミュージックプレイヤー」だとして考えてみる。それまでのCD-Walkmanでは得られなかった新しい未来の体験のストーリーをLTFに描き、それを用いてアンケートを実施することによって、そのコンセプトに対するフィードバックを得たり、顕在化させようとしている潜在的なニーズの可能性を探る。すなわち"What"という仮説について検証を試みる訳だ。その結果の分析から戦略マップを評価し、必要であれば比較の項目やポイントを修正する。もちろん、"What"自体を見直さなければならない事態もあるということも覚悟しておこう。そして、たとえば社内やクライアントや投資家にコンセプトを説明するためであったり、プロジェクトチームでコンセプトを共有しリファレンスとするためなどに必要であればLTFの視覚化を行う。以前のプロジェクトではこんなLTF視覚化(YouTubeでコンセプトビデオの再生が始まり音楽が鳴ります)を行ったが、プロジェクトのメンバーでコンセプトを共有するだけであればここまで作り込む必要はないだろう(自分はどうしてもこんなところに凝ってしまう)。

戦略マップと視覚化したLTFによってモノのデジタルリマスタリングの2まで進んだことになる。
  1. モノに関連する情報やコンテンツをインターネットで扱うことによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  2. バリュープロポジションを定義する
  3. それを実現する製品「ハード」「ソフト」「サービス」を再定義する 
バリュープロポジションとは「提供する価値」ということだが、LTFによって新しい経験価値を描き、戦略マップによってそのユニークさを定義する。この段階では必須ではないが、例えば"1,000 songs in your pocket."(1,000曲をポケットに)のように価値を伝えるためのフレーズ(言語化)を考えるのも楽しい。製品やサービスの名称と一緒に訴求するタグラインやキャッチコピーに使うことになるかもしれないが、まずはプロジェクトのメンバーでコンセプトを共有するのに有効だと思う。

そして、当初から想定していた機能要件に、アンケートからその必要性が導かれた新たな機能を加えて要件マップを作成する。まずは要件の羅列からはじめ、それを機能や実現に必要な技術やインフラ、その難易度や負荷などによってマッピングする。要件マップ自体は定義ではなく検討のためのたたき台になるものであるので、複雑にならないようにいくつかの軸ごとに複数のマップをつくるといいと思う。そこから次に"How"を考える訳だ。注意しなければならないことは、この要件マップは単一の製品やサービスで実現するものではないということだ。モノのデジタルリマスタリングの大前提は「ハード」と「ソフト」と「サービス」の組み合わせによって「新しい経験価値」を創出することだ。そのイメージを抱きながら要件マップを作成する。
lean innovation
上の図は、いま取り組んでいる「新たな(経験)価値創造」のプロセスを示したものだ。リーン・スタートアップの考え方あるいは精神を継承したもので、モノづくりのイノベーションすなわち新たな価値創造のためのリーン・イノベーションのプロセスと呼んでもいいのではないかと思っている。
戦略マップと視覚化したLTFによって新しい経験価値"What"をデザインする。そしてそれを実現するための「ハード」と「ソフト」と「サービス」がどのように役割分担するかによってそれぞれを再定義する。しかし、そのアイデアを盲信してそのまま時間とお金をかけて作り上げてしまうと痛い目をみるとD.A.ノーマンもエリック・リースも言っているのだ。実は、僕はなんども痛い目を見ている。しかし、どうだろう。自信満々のアイデアマンは「自分は違う」と思うのではないだろうか。できれば何度か痛い目をみたほうがいいのではないかとも思うのだが。もっとも、先達の考えたいろいろな方法論を駆使してイノベーションに取り組んだとしても、そうそう簡単に成功するものではない。イノベーションへの取り組みは何度か痛い目を見ることになるだろう。

まず1st Stepとして現行の製品とアプリの組み合わせによる価値提案を行ってみる。もちろんそれだけで、いままでになかった新しい価値を実現することはできない。いわば仮説を検証するためのMVPという位置づけだ。モノのデジタルリマスタリングによって創造しようとする新しい経験価値は、「モノに関連する情報やコンテンツをインターネットで扱うことによって可能になる新しいユーザー体験」であり、それを実現する仕組みとして「ハード」と「ソフト」と「サービス」の役割分担を決めてとりあえずのゴールを描いたものがリーン・イノベーションのプロセスの3rd Stepになる。ここではもっと明確に「新しい製品(モノ)」とWebサービスとアプリとしている。すでにアプリはモバイルファーストで考えるべき時代になっているだろう。「現行の製品とアプリの組み合わせ」は1つの実施例にすぎない。End to Endで新しい経験価値を提供するというGoalに向かって、どのようなステップを踏んでいくかという戦略立案もコンセプトデザインの一環に含めるべきだ。 

iPodの創り方」で使った3つの図で考えてみよう。もちろんAppleが考えていたこととは違う。2001年1月にiTunesが"Lip, Mix, Burn"というキャッチフレーズで発表された。パソコン上の「デジタルミュージックボックス」というコンセプトで、音楽CDを取り込んで(Lip)自分の好きなように音楽を編集し(Mix)、それをCD-Rに焼いて(Burn)持ち運びWalkmanで聞くことができるというものだった。これはリーン・イノベーションのプロセスの1st Stepに相当する。
ipod1
Lean 1st Step

そしてリーン・イノベーションのプロセスに従って続きを書くと次のようになる。

iPod_a2
Lean 2nd Step
 
iPod_a3
Lean 3rd Step (Goal)

しかし、2nd Stepと3rd Stepの順序は実際は逆で、2001年10月にiPodが発売され、2003年4月にiTunes Music Storeが開始された。

ipod2
実際の2nd Step
 
ipod3
実際の3rd Step (Goal)


Appleにとって、 もちろんWalkmanは自社の(現行)製品ではなく、他社の現行製品に破壊的なイノベーションを仕掛ける立場にある。Appleが2nd StepでiPodを発売した意味は2つあると思う。

まず、iTunesというMacのアプリケーションによって、コンピュータ上で音楽を管理するという新しい考え方を市場に提案しその理解を得て、次にそのiTunesと一体化したiPodによって携帯ミュージックプレイヤー市場に参入するというシナリオは自然だ。
そして、それまで音楽のインターネットでの販売と配信に抵抗していたコンテンツホルダーも、iPodによってユーザーを味方に付けたAppleについていくしかなくなるという流れをつくり、End to Endのもう一方にあるiTunes Music Storeの構築に成功した。

すでに携帯ミュージックプレイヤー市場におけるNo.1のブランドとシェアを獲得し、また自社にソニーミュージックという音楽コンテンツプロバイダー事業を抱えるソニーが同じGoalを目指していたしたら、リーン・イノベーションのプロセスに示した順番がよかったかもしれない。もっとも元CEOは当時を振り返って「iPodをつくりたかったけど、自分は工場を持っていたのでつくれなかった」と、まったく違うところを見ていたようだ。ここでは「つくる」という言葉は「創る」のはずであり、「作る」とか「造る」ではないのだが。リーン・イノベーションは、段階的にプロダクトを市場に提供し、そのフィードバックを得て市場とコミュニケーションをしながら、市場と自社事業の両方にイノベーションを起こしてゆくための、Build-Measure-Learnのダイナミックなイテレーションプロセスだ。

そしてその過程でユーザーのコミットメントを獲得してゆくということも重要なポイントだ。AppleにとってのiTunesはMacの価値を高める(デジタルハブ構想)というもうひとつの狙いがあった。もしソニーがiTunesを無償で(もちろんWindowsとMacの両方に)提供していたとするとリーン・イノベーションのStep1として「功利主義マーケティング 」という考え方も可能だっただろう。

まったく新しい経験価値を実現するために再定義した「ハード」と「ソフト」と「サービス」を作り上げていく過程で、どうやってユーザーからのフィードバックを得てゆくのか。ノーマンが列挙したようなプロトタイプ、例えば上手に描かれたデッサンやマンガあるいはアニメーションによるスケッチ、あるいはコンピュータによるバーチャルリアリティ表現などでは、すでに実施したLTFアンケートによって得られた"What"に対するフィードバック以上のものは期待できない。潜在ニーズはありそうだ、コンセプトは受け入れられそうだというだけにすぎない。そして"How"については、ユーザーの思いを積み上げていくプロセスが必要だと思う。別の視点から言えば、それはモノづくり企業がイノベーションに挑戦する過程で、「不確実性」を克服してゆくために必要なプロセスでもある。 そのリーン・イノベーションという考え方についてこんな図を描いてみた。

thinkings

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デジタルリマスタリングの最初のステップで少し停滞している。じつは進行中のプロジェクトでの取り組みを、iPodやNike+に置き換えてここで書いているものだから、その進捗のスピードが影響している。そのプロジェクトが停滞している訳ではなく、「新しいユーザー体験」と「潜在的なニーズ」ということについて繰り返し考えることに時間を費やしている。
モノに関連する情報やコンテンツをインターネットというインフラとその周辺の技術やサービスで扱うことによって可能になる新しいユーザー体験をいくつも描いてみると、きっと顧客(とあなた)が諦めていたことが見えてくる。その中から、顧客が本当に必要としているユーザー体験を抽出することができるはずだ。(過去記事より)
ここで、もう一度「顧客の諦めの式」を見てみよう。
公式
WalkmanからiPodへの変化をあてはめると次のようになる。もちろん、(いまさらであるが)これは説明のためのものであり実際にはもっと複雑だ。
公式例
式を入れ替えると次のようになる。
公式例変換
新しいユーザー体験とは、「どこででもその場で選んだ音楽を聴くことができる」と「どこでも(あらかじめ選んで持ってきたCDから)自分の選んだ音楽を聴くことができる」との差分であることがわかる。この差分を描けばいいわけだ。
この2つの「こと」の差を価値として感じるかどうかは人や状況によって大きく異なるだろう。誰も価値を感じてくれないとしたら、その潜在的なニーズを具現化できない(あるいはそれを潜在的なニーズとした仮説が間違っている)ことになる。間違った仮説に基づいてサービスやモノを創ったら悲惨なことになる。
「新しいユーザー体験を描く」という作業には実は非常に大きな意味がある。

新しいユーザー体験はペルソナ/シナリオで描く。これはHCD(人間中心デザイン)のアプローチでも用いられているものに似ている。しかし、その目的とアプローチ上の位置づけ(順番)が異なる。
HCDのアプローチでは、
  1. 問題の設定
  2. ユーザー調査とニーズ分析
  3. ペルソナ/シナリオ作成によるコンセプトの抽出
という順番になる。
問題あるいはニーズは、それを解決する(満たす)モノが現れて初めて顕在化する。それまで潜在的なニーズというものは存在しない。モノが現れてから、あたかも潜在していたニーズが顕在化したように見えるだけだ。存在しないものを見つけることは不可能だ。モノのデジタルリマスタリングではデザイン思考のアプローチ、すなわちまず本当の問題を特定してからその解決策を考えるというアプローチは機能しないのだ。サービスデザインと同じ取り組みでは、モノの機能や仕様の改善にしか結びつかない。(過去記事より)
ノーマンの"Technology First, Needs Last"にそそのかされて非常に断定的に書いてしまったが、もちろん僕自身がHCDやサービスデザイン思考のアプローチを否定しているわけではない。
HCDでは、問題設定からインタビューなどのユーザー調査とニーズ分析を行い潜在的なニーズを特定する。それに対し、ここ(モノのデジタルリマスタリング)では、「モノに関連する情報やコンテンツをインターネットというインフラとその周辺の技術やサービスで扱うことによって可能になること」という取り組みから始めている。

以前にも紹介したが、ノーマンの『誰のためのデザイン?』の全面改訂版"The Design of Everyday Things: Revised and Expanded Edition"には次のような記述がある。
Incremental innovation starts with existing products and makes them better. Radical innovation starts fresh, often driven by new technologies that make possible new capabilities. 

インクリメンタルイノベーションは既存の製品をもとにそれらをよりよくするという取り組みである。それに対しラディカルイノベーションは何もないところからスタートし、何かを可能にする新しい技術によってドライブされることが多い。
The techniques of human-centered design are appropriate to incremental innovation: they cannot lead to radical innovation.

HCDの手法はインクリメンタルなイノベーションに適している。ラディカルなイノベーションを導くことはできない。
ラディカルな(製品の)イノベーションは、それまでに存在しなかったものが新しい技術の発明によって生み出されるという意味で使われている。それまでなかった画期的な新しい製品を生み出すのは技術に依るところだという。

HCDのアプローチでは、まず解決すべき問題を設定し、ユーザー調査とニーズ分析によってユーザーの行動と感情を理解するところから始まる。そしてターゲットとするユーザー像をペルソナによって明確にし、そのペルソナが製品やサービスを使う様子をシナリオで表現する。この2つのステップを通して、設定した問題の原因やユーザーのニーズを発見してデザインのコンセプトをまとめる。すなわちペルソナ/シナリオは製品やサービスの改善すべきことを浮き彫りにするために用いられることが多い。ノーマンの言うインクリメンタルなイノベーションである。

「どこででもその場で選んだ音楽を聴くことができる」という潜在的なニーズの仮説だけみると、HCDのアプローチでも導くことができそうであるが、これは上でも書いたように説明のために簡略化したものであり、さらに「新しい技術やインフラによって可能になることは」という探索によって、iTunesというデジタルハブやiTunes Music Storeというコンテンツ配信サービスなどの新しい技術寄りのアイデアから導かれたものだ。ここまでは人間不在だ。
ノーマンが言うように「問題あるいはニーズは、それを解決する(満たす)モノが現れて初めて顕在化する」のであるならば、解決するモノが現れるまで、ユーザー調査やニーズ分析を行っても問題やニーズの発見はできないことになる。もちろん、すべての問題やニーズではなく、ラディカルなイノベーションによって解決される問題やニーズを指している。
この人間不在デザインと天才的なひらめきを頼りに、新しい技術やインフラによって実現が可能になる製品やサービスを発明し、人々の潜在的なニーズを顕在化させて大きな成功を得ることが技術者の夢だ。
しかし、数少ない大きな成功の裏側には多くの失敗が累々としている。たとえ天才的なひらめきによるものであっても、その不確実性は確実に存在する。

デザイン思考によって製品(モノ)をデザインすることを、ここではあえてモノの(デジタル)リマスタリングと呼んでいる。それはモノの価値を再定義し、モノが提供する機能的な価値だけでなく、そのモノを購入したユーザーが、そのモノに関連して経験することによって得られる価値にまで視点を拡張してデザインし直すことだ。
新しい技術やインフラによって可能になる新しいモノのアイデアを思いつき、それが人々に大きな価値を提供できると確信しても、まずデジタルリマスタリングのアプローチを試してみる価値はあると思う。
  1. インターネットによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  2. バリュープロポジションを定義する
  3. それを実現する製品とWebサービスをデザインする 
iPodの場合はオリジナルのデジタルビジネスデザインのステップの方がフィットするが、新しいユーザー体験を描く」というステップは同じだ。
  1. デジタルコンバージェンスを可能にする技術やインフラを定義する
  2. それによって可能になる「新しいユーザー体験」を描く
  3. バリュープロポジションを定義する
  4. それを実現する製品「ハード」「ソフト」「サービス」を再定義する 
iPodというハードウェアとiTunesというソフトウェア、iTunes Music Storeというサービスの役割分担を決めるのは最後になる。
「どこででもその場で選んだ音楽を聴くことができる」という潜在的なニーズが満たされるということは、どのような価値が生まれるということなのかをペルソナ/シナリオで描いてみる。 どんな人(ペルソナ)が、どんなときに、どんな場所で、どんな音楽を聴きたくなるか。そしてそのとき、どんなことができたらどんな気持ちになるか。これはHCDのアプローチの場合と異なり、ペルソナが価値を感じるシナリオでなければならない。この時点では、プロジェクトチームの思い入れで構わないので、いろいろなペルソナとシナリオを考えてみる。
異なったペルソナでいろいろなシナリオが書けるだろうか。そのシナリオはペルソナにとって、他では得られない価値のある経験だろうか。きっと書きながらいろいろな疑問や課題が見えて、アイデアを少し客観的に評価することができる。そしてそれだけでなく、新たなアイデアが生まれるかもしれない。きっとターゲットとなるユーザー層やアーリーアダプタも見えてくるに違いない。

次は、ここまでの人間不在デザインを人間中心デザインに転換するための、ペルソナ/シナリオを用いた「共感アンケート」について書こうと思っている。これはリーンスタートアップのMVPという考え方から発想したものだ。

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